小田原(小田原駅~箱根板橋)と長崎市内を走り続け引退した「チンチン電車」を故郷・小田原での保存を目指す「小田原ゆかりの路面電車保存会」の活動が加速している。
小田原市内を走り続けた路面電車のモハ202号。本来は、国府津~箱根湯本間が運行区間だったが、市内電車となり小田原駅~箱根板橋間のみを運行するようになった。その背景には当時の歴史的な流れがある。
1887(明治20)年に新橋から国府津(こうづ)まで開通していた東海道線。国府津以西の延長計画の中に小田原や箱根は含まれておらず、松田~山北~御殿場~沼津のルートが採用された。これを受けて国府津~小田原~箱根を結ぶ私設鉄道敷設計画案が浮上。1887(明治20)年11月20日、国府津~湯本間の馬車鉄道敷設の請願書を神奈川県に提出し、1888(明治21)年2月21日に免許が交付。箱根登山鉄道の前身「小田原馬車鉄道」が設立された。
この馬車鉄道が1896(明治29)年10月15日、電気鉄道への移行を開始。社名も「小田原電気鉄道」に商号変更。4年後の1900(明治33)年3月21日に電気鉄道線として営業を始めたが、1920(大正9)年10月21日、鉄道省の熱海線(国府津~小田原間)が開通したため、小田原電気鉄道の国府津~小田原間は運行を停止した。
小田原~強羅間の新路線による直通電車運転が始まり、1935(昭和10)年9月30日に箱根板橋~箱根湯本間の軌道線が廃止された。これにより小田原~板橋間の市内電車となった。そこで活躍していた車両が202号車。1956(昭和31)年5月31日、小田原~箱根板橋間営業廃止まで元気に走り続け、「チンチン電車」の愛称で呼ばれ市民に愛されていた。
その後、長崎電気軌道(長崎市)に譲渡。現役車両として長崎市内を走り続けていた。長崎電気軌道には72両の車両があり、このときの車両番号は「151号」。2018年に引退するまで元気に働き通した。「情緒あふれる車両で長崎市内になじんでいた」「好きな車両で走る音がとてもメカニック」とファンも多い。
引退した路面電車を故郷の小田原で保存するよう活動を始めたのは、小田原市内でカフェ「ケントスコーヒー」を経営する平井丈夫さん。小田原の魅力を多くの人々に知らせ案内する「まち歩きガイド」の活動も推進。長崎のまち歩きガイドの人々と巡り会うことがあった。平井さんはその日のことを振り返る。「小田原から来た路面電車の151号(小田原ではモハ202号)が、長崎でも元気に走行していることを知った。併せて、引退の時期も近いことも知った。『これはふるさとの小田原に帰ってもらうのが一番良いはず』と思い活動を始めた」と話す。
小田原ゆかりの車両里帰りプロジェクトの経験があり、神奈川県西湘地域の鉄道の歴史も研究している小室刀時朗(こむろとしろう)さんを会長にして「小田原ゆかりの路面電車保存会」が設立された。山北鉄道公園保存会・デハ601保存会の山崎勝裕会長、ういろう25代目の外郎藤右衛門社長らが推進メンバーとなり平井さんは副会長に就任した。
難題だった設置場所も決まり、次の大きな課題は資金調達。現在、READYFORを活用してクラウドファンディングに挑戦している。平井さんは「多くの方の協力でここまで来た。202号をふるさと小田原に里帰りさせたい。ぜひ協力を」と呼び掛ける。