箱根登山鉄道が2019年10月の台風19号による被害を乗り越えて、工期を早め285日で運行を再開した背景に、国や神奈川県、箱根町の協力をベースに、幾多の困難を乗り越えてきた箱根登山鉄道の「鉄道マン魂」と地域の人々の「箱根登山鉄道に対する受け継がれる思い」がある。
台風19号による被害を知った多くの人は「これは相当な時間がかかる」「廃線もありかもかもしれない」と様々な思いでいた。箱根登山鉄道を撮り続けている写真家の大橋史明さんもその一人。「台風の翌日に現場に行った。そのときの悲惨な光景は忘れられない。『廃線』の言葉が頭をよぎった。でもそこから立ち上がって運行が再開された。そのプロセスはまさにドラマだった」と振り返る。
大橋さんによれば「箱根登山鉄道には、地震や台風と戦い続けた歴史がある。そしてそれらを乗り切ってきた。今回もその歴史の1ページをみごとにつないだのだと思う」と話す。
箱根登山鉄道の資料によれば、箱根湯本から強羅までの営業が開始されたのが1919(大正8)年6月1日。昨年の2019(令和元)年6月1日で開業100周年を迎えていたがそのルーツは、1888(明治21)年2月21日の小田原馬車鉄道の設立までさかのぼる。
1887(明治20)年に新橋から国府津(こうづ)まで開通していた東海道線。しかし、国府津以西の延長計画の中に小田原や箱根は含まれておらず、松田~山北~御殿場~沼津のルートが採用された。東海道線のルートから外されることは、小田原・箱根の人々にとっては「とり残される」ことを意味する。江戸開府以来、東海道の主要な宿場町として栄えてきた小田原・箱根の人々にとっては耐え難く、箱根への湯治客の減少にも結びつく。
この困難の中で地域の人々によって計画されたのが、国府津~小田原~箱根を結ぶ私設鉄道敷設計画案。1887(明治20)年11月20日に、国府津~湯本間の馬車鉄道敷設の請願書を神奈川県に提出。翌1888(明治21)年2月21日に免許が発行され「小田原馬車鉄道」設立された。これが箱根登山鉄道の前身となる。
馬車鉄道敷設は、東海道線国府津停車場前から湯本の旭日橋の手前広場までの12.9キロの全工程。これをわずか7カ月という短期間で完成させた。松原神社(小田原市)の裏手にきゅう舎が建てられ、鉄路の上を2頭立ての馬車が、小田原・箱根の人々と、遠来の湯治客をのせて走った。「小田原・箱根を馬車鉄道が通る」。それが東海道線のルートから外されたこの地域の鉄道交通の夜明けだった。
1896(明治29)年10月15日に電気鉄道への移行を前提として、社名を「小田原電気鉄道」に商号を変更。沿線に電力を流す工事が始まり4年後の1900(明治33)年3月21日に電気鉄道線として営業を開始した。
更に、現在の強羅駅までの延長工事に挑んだのは、1915(大正4)年8月1日。出山・大平台・上大平台の3カ所にスイッチバック線を設け、最急勾配は80パーミル。自然を損なわないように、山ひだをぬうように路線が設置されたため、最小曲線半径は他に類をみない30メートルになった。工期4年間で難工事をやりあげて、1919(大正8)年6月1日に箱根湯本~強羅間8.9キロの運転を開始したが、再び困難に立ち向かう事態が待っていた。
それが1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災。箱根一帯にも多くの被害が発生し箱根登山鉄道も運休となった。この困難も10カ月の突貫工事で1924(大正13)年7月9日に復旧を成し遂げている。
幾多の難関を乗り越えてきた箱根登山鉄道。常に迅速な復旧と運行再開をやりあげる鉄道マンの心意気と地域人々の応援・支援が原動力になっている。今回の台風19号では各所で被災したが、「大沢橋梁(きょうりょう)」(大平台駅~仙人台信号場間)、「蛇骨陸橋」(宮ノ下駅~小涌谷駅間)、「小涌谷踏切」(小涌谷駅付近)の被害が大きかった。
国道1号線を川のような光景に一変させた豪雨。その雨水が、国道1号線と箱根登山鉄道が唯一交差する「小涌谷踏切」に流れ込む様子がテレビでも放送され被害の大きさを多くの人が予想した。
一夜明けて徐々に「甚大な被害」が明らかになる。現地に駆けつけた大橋さん。「廃線」の言葉が脳裏をよぎった。「いやいやそんなことはない。箱根登山鉄道は、今までも多くの困難を乗り越えてきた歴史がある。大丈夫」と念じて悲惨な姿をカメラに収めていた。
復旧作業は早かった。土砂や倒木が取り除かれ、重機が箱根の斜面にへばりつきながら工事が進んでいく。「それは感動のドラマ。自分自身が勇気づけられた」と大橋さん。全線再開の7月23日は、7往復して撮影を続けた。
蛇骨川の工事現場を通過すると、より安全にするための工事が続いているのが見える。大橋さんは「復旧させてくれてありがとう」と感謝の気持ちを込めてシャッターを切る。「工事関係者の凜とした姿がそこにあった」と話す。